スヴェン・ヘディンの生涯
凄い人なんだろうな。
ストックホルムで建築業を営む中流家庭に生まれ、小学校の同級生には経済学者グスタフ・カッセルや数学者イヴァル・フレドホルムなどがいた。1902年に貴族に列せられ、1909年にイギリスより"ナイト"の称号を得る。
アドルフ・エリク・ノルデンショルドの成功に感銘を受け、生涯師事した。ベルリン大学でシルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェンの指導をうけて中央アジア探検を決意し、ペルシア、メソポタミアに旅行(1885年?86年)。スウェーデン王オスカル2世がペルシアに派遣した使節団の一員としてメルヴ、ブハラ、サマルカンド、カシュガルなどを旅行(1890年?91年)。ロシアのオレンブルクからウラル山脈を越え、パミール、タクラマカン砂漠南辺、ツァイダム、青海からオルドスを横断、張家口を経て北京に到着(1893年?97年)。
タリム盆地および中部チベット湖沼地方の北部を探検(1899年?1902年)、その間ロプノール付近に古代都市楼蘭の遺跡を発見(1901年)。多くの文書・遺物を取得してカラコルム山脈を越え、レー・カシュミールに出て、再びカラコルム峠を越えてカシュガルにいたり、フェルガナのアンディジャンに到着、ロシア経由で帰国した。1905年、ペルシアからインドに入り、レーから西北チベットに侵入、中央チベット湖沼地帯を探検してインダス河、サトレジ河、ブラーマプトラ河の水源地方を調査。シガツェに至ってパンチェン・ラマの歓迎を受けた。サトレジ河の河源およびヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なるトランス・ヒマラヤ山系の発見は、この調査旅行で最も意義ある業績である。これらの成功は、パトロンであるロシア皇帝ニコライ2世との個人的な友情なしには成功はなしえなかった。また、ノーベル家の援助も受け、その関わりは生涯に渡った。
1908年に帰国。1927年に西北科学考査団(The Sino-Swedish Expedition)を組織し、スウェーデン・ドイツ・中国の学者の協力による大規模な探検を行い、東は東蒙古の熱河地帯から西は新彊省を越えてペルシアにおよび、南はチベット北部から北は天山に至る地域について地理、考古、生物、民族、人類学など広範囲な部門について研究を行った。新彊省の政治上の悪化と第二次世界大戦の勃発によってその予定は完全には実現されなかった。
1935年に帰国するが、途上立ち寄ったドイツでアドルフ・ヒトラーの歓迎を受け、その後数回にわたってナチス幹部と接触を持つ(ISBN 4122017416)。彼は16分の1ユダヤ人(ヘディンを貶める巧妙な告発であったが、彼自身はこれを誇りであると一蹴した)だったが、新聞紙上で台頭期のナチを礼賛したこともあった。これらの事が原因で第二次世界大戦後には批判され、彼の存在は考古学界からは抹殺された。彼はナチではなかったが、チベットに興味を持ち、彼の偉業を正当に評価してくれるヒトラーのプロパガンダに利用されたのであった。フィンランドのマンネルヘイム将軍とも友人で、フィンランドとナチスとの同盟を画策したことも、大戦後の彼の功績に傷をなすものであった。しかし現在では、ヘディンの功績は、無視できないほど大きく、再評価の段階に入っている。ナチスに対し無知であった事も原因であったが、彼のドイツ人との半世紀近くに渡る友好関係がそれを招いたと言える。また日本とも友好的な立場であったが、日中戦争の勃発以後は、大日本帝国への反感を強めていった。この様に彼は、強国に対する弱国の立場を擁護しようとしたのである。ただソ連の様な共産主義に対抗するためにナチスと接触するなどの半政治家的活動が、探検家、学者としてのヘディンの功績に仇をなしたのである。
1952年、ヘディンはストックホルムで没した。
探検旅行の帰途、1908年には来日し歓迎された。また、日本人として初めてチベット入した河口慧海とも書簡を交している。中央アジアの探検家たちとも知己の関係を築いた。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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